はじめに
言葉を操るプロフェッショナル、アナウンサー。華やかに見えるその世界の裏側では、激しい競争と過酷な現実がある。
テレビ・ラジオ局に所属している場合、キー局や地方局などの所属にもよるが昼夜を問わない不規則な勤務形態が当たり前であった。30代を過ぎて子育て期になれば、リハーサルを含めて拘束時間の長い現場から静かにフェードアウトしていくアナウンサーも少なくない。さらに現代では、AIによる音声合成やナレーションが実用レベルに達した。「原稿内容を、綺麗に読むだけ」の仕事は、急速に代替されつつある。
こうした「変化が難しいアナウンス業界の構造」と「テクノロジーの進化」が交差する現代において、株式会社トークナビは独自の生存戦略を取っている。2015年の設立以降、現在では全国に80名ほどのアナウンサーを抱え、広報代行サービスにおいては2,400件以上のメディア露出実績を誇る。
同社はフリーアナウンサーのライフステージに合わせ、「催事での司会」「短時間の研修講師」「リモートでの企業の広報代行」など柔軟にキャリアをシフトできる仕組みを構築。アナウンサーのセカンドキャリアのひとつとして成立していた「タレントモデル」とは一線を画し、「言葉で伝えること」にフォーカスしたユニークな事業モデルを確立した。
今回は、自らも局アナとしてプロの厳しい壁にぶつかり、そこからキャリアの微調整を繰り返すことで独自のモデルを構築してきた樋田(といだ)代表にインタビュー。壁に直面したとき、局アナから経営者へ転身したときのエピソード、現在のビジネスモデルに行き着くまでのストーリー、そしてAI時代における「人が伝える意味や価値」についてThinkD単独でじっくりお話をうかがった。
名門高校での挫折と気づき。苦労した就職活動。直面したプロの厳しさ。
─────まずは樋田(といだ)さんご自身についてお聞きします。どのような少女時代を過ごされたのでしょうか?
岐阜県岐阜市の出身で、父はピアノの調律技術士をしていました。女の子が生まれるとわかった段階でグランドピアノを買ったらしく、自宅の応接室にはグランドピアノがドーンと置かれているような家で育ちました。
父の仕事柄、幼い頃から音楽がとても身近な環境で育ちました。また、祖父は石彫を彫ったり油絵を描くことが趣味で、その作品に触れる機会も多くありました。自然と芸術に親しむ環境で育ったことが、感性を育んでくれたのだと思います。
─────とても文化的な環境ですね。習い事などはいかがでしたか?
習い事はたくさんやっていました。生まれる前からピアノが用意されていたので、大学で一人暮らしを始めるまでピアノはずっと続けていました。他には歌のレッスンも受けていましたし、習字も習っていました。あと、地域の文化センターでの朗読教室にも連れて行ってもらいました。年配の方に混ざって森鴎外の「高瀬舟」を感情を込めて読み上げるといった渋い経験もしました。
こうした経験は学校の勉強や受験対策とは異なる文脈で、子どもの可能性を広げるために母が探してきてくれたものでした。父の仕事の関係で、ピアノの調律師の方々が集まる社交の場にも連れて行ってもらっていたこともあり、年齢が上の方々ともまったく違和感なく接することができるようになりました。
.png?w=860&q=80&fm=webp&fit=max)
母は趣味でちぎり絵や腹話術などをやっていて、その影響で私も少し声を遅らせて出せるという特技を身につけました(笑)。
─────学校は地元の市立校に通われていたとのことですが、高校は名門の岐阜商業に進学されていますね。
岐阜商業に入ったのは本当にたまたまでした。中学では陸上をやっていて、割と速いほうだったので、地元でオリンピック選手や著名人をたくさん輩出している岐阜商業を選びました。
部活動がとても盛んな学校で、原則として全員が部活に入る決まりがありました。いろんな部活がありますが、陸上部や水泳部、簿記部や茶華道部など全国優勝を果たした部活が多くて、なんと言うか、みんなすごくて…。
どの部活にするか決めかねている時にたまたま勧誘されたのが放送部でした。「高校野球の県予選でウグイス嬢ができるよ」という誘い文句に魅力を感じて、ミーハーな理由なんですけど、放送部に入ることにしました。
─────放送やアナウンスとの出会いは偶然だったのですね。実際に放送部の活動を始めてみて、いかがでしたか?
やってみると、単純に「面白い」と感じました。同級生の友達が「ハキハキしていてとても聞きやすい」と褒めてくれたことがきっかけで、顧問の先生が放送コンテストに出場させてくれたんです。高校1年生でいきなり入賞することができて、結果を出すことができたのでどんどんのめり込んでいきました。
コンテストでは、自分でニュース原稿を書き、その内容を伝えるというプロセスがあるのですが、岐阜商業にはすごいキャリアを持った先生がたくさんいるので取材先には困りませんでした。当時、水泳でオリンピックに出場した糸井統さんが体育の先生をしていたので、「どうしたらオリンピック選手になれますか?」とインタビューしました。
糸井先生からは「普段の練習を本番だと考えること。その状態を継続すること。そして、オリンピックの本番では、普段と同じようにすることを心がけていた」と教えていただき、原稿を書き上げたことを覚えています。
─────1年生から入賞とは素晴らしいスタートですね。元オリンピック選手など、なかなか刺激的な環境だったのではないでしょうか?
刺激はもちろんありましたが、それよりも驚きや挫折に近かったかもしれません。上級生には体操競技でオリンピックに出場した先輩がいましたし、クラスの男子の半分くらいは夏の甲子園出場を目指していました。同じ高校生なのに、「国を代表して世界で戦う」とか「日本一を目指す」とか、高いマインドの持ち主ばかりでした。
そんな環境で自分を振り返った時に、びっくりするくらい自分には何もないことに気づいたんです。「みんなはすごいところを目指しているのに、私はピアノを弾いてきただけの普通の高校生だ」と思いました。シドニーオリンピックに日本代表として出場された先輩の家に遊びに行ったことがあるのですが、メダルやトロフィーがずらーっと並んでいるのを見たときに、「同世代なのにこんなにも違う人生を送ってきたのか」と圧倒されました。

みんなとの違いを実感し、私なりに悩んだりもしましたが、「上を目指して自分に厳しくがんばり続けている人たちにインタビューして、それをわかりやすく誰かに伝えることはできるかもしれない」と思ったんです。これが「伝える側にまわろう」と決めた原点でした。
─────その時点で「将来はアナウンサーになる」という目標ができたわけですか?
目標というか、「なれたらいいな」という感じでした。というのも、放送部の県大会でずっと勝てない人がいたんです。彼女は別の高校だったのですが、アナウンス技術が素晴らしい上に同性の私から見ても圧倒的なオーラがあり、憧れの存在でした。
大会ではいつも彼女が優勝していて私は2位だったのですが、高校生のうちにどうしても勝ちたかった。そこで私は「彼女に勝つことができれば、岐阜の田舎からでも遠い存在であるアナウンサーになれるはず」とマイルールを決め、ひたすら練習を重ねました。そして、3年生の最後の大会で初めて1位になることができたんです。
─────まさに有言実行ですね。その後についても聞かせてください。
優勝できたので、マイルール通りにアナウンサーを目指そうと心に決めたのですが、私は自分を表舞台に出すことに自信が持てなくて、その夢を口にするのが恥ずかしく誰にも言えませんでした。
高校の進路面談の時に、勇気を出して担任の先生にだけ打ち明けたところ、すごく親身になって相談に乗ってくださったんです。私は自宅近くの大学に進学しようと思っていたのですが、「夢を実現したいのなら、せめて名古屋に行きなさい。名古屋で一番アナウンサーを輩出している大学の推薦枠があるから、そこへ行きなさい」と母親にも熱を込めて力説してくださいました。
当時の私には「アナウンサーになりたい」という気持ちしかなく、将来を見通す判断力がありませんでした。でも先生は、その夢だけを軸にして、どうすれば実現できるかを真剣に考えてくださいました。いまでも本当に感謝しかありません。
─────大学では、夢に向かってどのような準備を進めていったのでしょうか?
アルバイトでは言葉を使うキャラクターショーのお姉さんをやったり、先輩が立ち上げた学生のインターネット放送局でリポーターをしたり、アナウンサー就職に照準を合わせた生活をしていました。
大学2年生のときには気象情報会社が制作している動画番組のお天気キャスターにも挑戦しました。オーディション会場に行くとタレントさんのような綺麗な方たちばかりで、「普通にしゃべるだけでは審査員の記憶に残らない」と思いました。そこで、腹話術をしたり、一人で「現場の樋田さーん」「はーい!」と掛け合いをしたりして、どうにか爪痕を残そうとしました。客観的に見たらちょっと変な人だったと思いますが、なんとか審査を通過し、お天気キャスターになることができたんです。

それからは、名古屋の大学に通いながら、週に3日は千葉に通っていました。千葉にマンションを借りて行ったり来たりする二拠点生活でしたが、大変さはまったく感じず、「夢のアナウンサーに近づける」といううれしさだけで突き進んでいました。
─────いよいよ就職活動ですが、マスコミの中でもアナウンサー試験は少し特殊だと思います。当時の就職活動についても教えていただけますか?
アナウンサー試験は、ニュース原稿の読み上げやスタジオでのカメラテストがあります。そのため、大学に通いながら、アナウンススクールにも通っていました。
当時のスクールの指導方針は「全国の局を大きい順に全部受ける」というものだったので、全国の放送局の締切情報を必死にチェックしていたのを覚えています。
私がアナウンサー試験に挑戦していた当時は、大学2年生の夏からキー局(※)の選考が始まり、年内に内定が出揃います。
(※)キー局:テレビ放送においては、東京都内に所在する5つの主要放送局を指す。ラジオ放送においても略同様で、こちらも東京都内の5つの放送局を指す。対して大阪府大阪市や愛知県名古屋市に本社を置く民放局を「準キー局」、それ以外のエリアの民放局を「ローカル局」「地方局」などと呼ぶ。
キー局の選考の後に、関西圏や中京圏の準キー局、そして地方局の試験が始まるのですが、私はことごとくお見送りでした。履歴書を出しても出しても通過せず、一般企業の就職活動をしているまわりの友人がどんどん内定を獲得していき、大学でも就活ムードが下火になっていく中でも、私はひたすら全国の地方局を行脚して、試験を受けていました。
アナウンススクールの仲間たちが次々と内定を手にしていくので本当に焦りましたが、特に仲の良かった友人が「次はあなたの番だよ」と励ましてくれて、夜行バスの乗り場まで見送りに来てくれたことはすごく覚えています。
東京の新宿から夜行バスに乗って青森に向かい、青森放送のアナウンサー試験を受け、ようやく内定をいただけたのが大学4年生の8月25日でした。大学2年生のときから始まった長い戦いだったので、日付はいまでもハッキリ覚えています。何度も「もうダメだ」と思いましたが、諦めずに夢を実現することができました。
─────アナウンサー試験の合格、本当におめでとうございます!プロのアナウンサーとしての生活はいかがでしたか?
2008年4月に青森放送に入社し、「初鳴き(※)」はラジオのニュースでした。心臓が飛び出るほど緊張したのを覚えています。
(※)初鳴き:新人アナウンサーが初めてアナウンスすること。
住む場所も変わり、新しい環境での生活にワクワクしていたこともありますし、夕方の看板ニュース番組でお天気キャスターの役割もいただくことができて、順調でしたし楽しかったです。
でも、そんな楽しい気分はすぐに打ち砕かれました。先輩アナウンサーの方々は信じられないほどアナウンス技術が高くて、圧倒的なスキルの差を感じたからです。特に、当時番組をご一緒させていただいた秋山博子先輩は系列局の優秀なアナウンサーに与えられる賞を獲得するような偉大な方でした。
秋山先輩のニュース読みやドキュメンタリーのナレーションは、声の出し方から間の取り方まで、聴いているだけで鳥肌が立つような圧倒的なものでした。それに対して、自分のナレーションを録音で聴いてみると凄まじいギャップを感じたんです。「プロのアナウンサーとして仕事をしているのに、やっていることは学生の発表会レベルだ」と思い、あまりの実力の差に心が折れそうになりました。
.png?w=860&q=80&fm=webp&fit=max)
学生時代にキャラクターショーやお天気キャスターで経験を積んだことが、変な自信になっていたのだと思います。でも、私の場合はそんな自信はプロの現場では何の役にも立たないと痛感しました。そこから、放送が終わってからブースにこもり、その日の録音を確認して練習する日々が始まりました。
─────やっとの思いでアナウンサーのキャリアを手に入れたと思ったら、プロの世界は厳しいですね…。
そうですね。何よりもつらかったのは、すでに素晴らしい技術を持っている先輩の方々が、放送の前後に時間を見つけてずっと自主練習をしていたことです。「これだけ上手なベテランアナウンサーがこれほど練習しているんだから、私はその何倍も練習しないと絶対に追いつけない」と思い、狂ったように練習を続けましたが一向に差は縮まりませんでした。
また、私は喘息の持病があるのですが、その影響で声量が少し弱く、声が小さいという弱点があります。「こうすればもっと良いアナウンスになる」と頭では理解していても、実際には理想の声が出せない悔しさもあり、それでも「どうすれば上達するのか」を考えながら、あがいていたように思います。
とにかく、あの声と完璧な間は、毎日の地道な鍛錬によってのみつくられる「本物のプロの技術」なのだということは、現場で骨の髄まで叩き込まれました。
─────とてもストイックに仕事と向き合っておられたのですね。少し目線を変えて、青森放送で得られたことや現在につながっている経験についてもお聞きしたいです。
幅広い業務に携わる機会をいただけたことは、非常に良い経験だったと思っています。地方局は少ない人数で業務を進めるため、アナウンスだけが仕事ではありません。テレビもラジオも担当しますし、企画をすることもあれば、音響をすることもあります。
たとえばラジオの録音番組では、自分の企画書が通ったら、番組のタイトルも自分で決めますし構成台本もつくります。本番中はブースに入って自分で話しますし、番組に届いたお便りを読み上げつつ、次にかけるリクエスト曲をセットして、タイミングを見て音量の上げ下げまでやっていました。収録が終われば編集作業があるため、遅くまで局に残って音声をつなぎ合わせるというのが当たり前でした。
いま思えばハードな働き方をしていたかもしれませんが、いろいろと任せていただけることがうれしかったですし、自分のアイデアが番組として世の中に発信されるのですごくやりがいがありました。さまざまな業務に携わったことで、たくさんの経験が積めたことは大きな収穫だったと思います。
─────その後、フリーに転向されていますね。
2011年の3月いっぱいで青森放送を退社し、フリーアナウンサーになりました。「もっと広い世界を見てみたい」という気持ちがあり、違う環境に挑戦しようと考えたからです。
フリーアナウンサーとして名古屋のテレビ局で仕事をするようになってからは、全国ネットのニュース番組内で流れるローカルニュースやイベントのMCなどを担当していました。そのテレビ局では完全な分業制になっていて、アナウンサーが自分で企画をつくったり編集をすることはありませんでした。
その代わり、本番のアナウンスに求められるパフォーマンスの期待値が非常に高かったです。私は深夜のニュース番組でローカル枠を担当していたのですが、本番の時間は短いものの待機時間が長く、張り詰めた状態で本番を待つ緊張感のある現場でした。
─────名古屋のテレビ局にはどのくらい在籍されていたのでしょうか?
3年くらいだったと思います。業務が完璧なルーティンとしてシステム化されているので、シフトの中で同じ毎日が繰り返されていく感じでした。仕組みが整っていることは良いことだと思う一方で、個人的には「広い世界を見てみたい」「いろんなことに挑戦したい」という気持ちがあったので、環境を変えるために東京に出ることにしました。
─────いよいよ東京への挑戦ということですね。
東京に出てきて、大手タレント事務所に所属したところまでは良かったのですが、現実は思い描いていたものと違いました。事務所に所属しているだけで、たいして仕事がない状態が続いたんです。
唯一獲得できたのは千葉のテレビ局の1本だけでした。毎週土曜日に放送される番組でしたが、収録は月に1回です。朝からスタジオに集まり、1日で4本録りしていました。1ヶ月分を一気に収録するので、残りの29日はスケジュールが真っ白で、ずっとお休みのような状態でした。
フリーアナウンサーは基本的に事務所が案件を獲得してくるのを待つしかありません。完全に「待ち」の環境に置かれた時に、いろんなことに挑戦したくて東京に出てきた私のエネルギーは行き場を失ってしまいました。「仕事をしたいのに、仕事がない。どうすればいいだろう」と悶々と考えるようになったんです。
そして「待っているだけじゃダメだ」と考えるようになり、ついに事務所を辞めて自分で会社を立ち上げる決心をしました。大きな決断だったので、日付もハッキリ覚えています。2015年の3月19日、私が29歳の時でした。

.png&w=256&q=75)