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トップインタビュートークナビ・樋田 かおり
「事業計画書ナシ」「見込み顧客ゼロ」から始まった元アナウンサーの挑戦。“伝える力”を信じ抜いたトークナビ樋田が考える、他社ともAIとも競合しない生存戦略。

「事業計画書ナシ」「見込み顧客ゼロ」から始まった元アナウンサーの挑戦。“伝える力”を信じ抜いたトークナビ樋田が考える、他社ともAIとも競合しない生存戦略。

2026.08.26 公開

本日のゲスト

株式会社トークナビ 代表取締役 樋田 かおり

設立:2015

事業内容:研修事業・講演会・セミナー企画および運営、司会者キャスティング事業、広報代行事業など

推薦理由

島田州平

島田州平

株式会社iimon 代表取締役

樋田社長は、「伝える力」で社会を変える経営者です。女性アナウンサーが結婚や出産を経ても輝き続けられる新しい働き方を創り、多くの人の人生に新たな選択肢を生み出しています。そして、数々のカンファレンスで司会を任されるその姿は、「樋田さんがいるだけで場が締まる」と言われるほど。プロとして空気を創り、人を輝かせる力は唯一無二です。人の可能性を信じ、挑戦を支え続ける樋田社長のこれからの活躍を心から応援しています!

※本記事は、公開済みの内容(Vol.1Vol.2Vol.3)を一本にまとめた完全版です。

はじめに

言葉を操るプロフェッショナル、アナウンサー。華やかに見えるその世界の裏側では、激しい競争と過酷な現実がある。

テレビ・ラジオ局に所属している場合、キー局や地方局などの所属にもよるが昼夜を問わない不規則な勤務形態が当たり前であった。30代を過ぎて子育て期になれば、リハーサルを含めて拘束時間の長い現場から静かにフェードアウトしていくアナウンサーも少なくない。さらに現代では、AIによる音声合成やナレーションが実用レベルに達した。「原稿内容を、綺麗に読むだけ」の仕事は、急速に代替されつつある。

こうした「変化が難しいアナウンス業界の構造」と「テクノロジーの進化」が交差する現代において、株式会社トークナビは独自の生存戦略を取っている。2015年の設立以降、現在では全国に80名ほどのアナウンサーを抱え、広報代行サービスにおいては2,400件以上のメディア露出実績を誇る。

同社はフリーアナウンサーのライフステージに合わせ、「催事での司会」「短時間の研修講師」「リモートでの企業の広報代行」など柔軟にキャリアをシフトできる仕組みを構築。アナウンサーのセカンドキャリアのひとつとして成立していた「タレントモデル」とは一線を画し、「言葉で伝えること」にフォーカスしたユニークな事業モデルを確立した。

今回は、自らも局アナとしてプロの厳しい壁にぶつかり、そこからキャリアの微調整を繰り返すことで独自のモデルを構築してきた樋田(といだ)代表にインタビュー。壁に直面したとき、局アナから経営者へ転身したときのエピソード、現在のビジネスモデルに行き着くまでのストーリー、そしてAI時代における「人が伝える意味や価値」についてThinkD単独でじっくりお話をうかがった。

名門高校での挫折と気づき。苦労した就職活動。直面したプロの厳しさ。

─────まずは樋田(といだ)さんご自身についてお聞きします。どのような少女時代を過ごされたのでしょうか?

岐阜県岐阜市の出身で、父はピアノの調律技術士をしていました。女の子が生まれるとわかった段階でグランドピアノを買ったらしく、自宅の応接室にはグランドピアノがドーンと置かれているような家で育ちました。

父の仕事柄、幼い頃から音楽がとても身近な環境で育ちました。また、祖父は石彫を彫ったり油絵を描くことが趣味で、その作品に触れる機会も多くありました。自然と芸術に親しむ環境で育ったことが、感性を育んでくれたのだと思います。

─────とても文化的な環境ですね。習い事などはいかがでしたか?

習い事はたくさんやっていました。生まれる前からピアノが用意されていたので、大学で一人暮らしを始めるまでピアノはずっと続けていました。他には歌のレッスンも受けていましたし、習字も習っていました。あと、地域の文化センターでの朗読教室にも連れて行ってもらいました。年配の方に混ざって森鴎外の「高瀬舟」を感情を込めて読み上げるといった渋い経験もしました。

こうした経験は学校の勉強や受験対策とは異なる文脈で、子どもの可能性を広げるために母が探してきてくれたものでした。父の仕事の関係で、ピアノの調律師の方々が集まる社交の場にも連れて行ってもらっていたこともあり、年齢が上の方々ともまったく違和感なく接することができるようになりました。

母は趣味でちぎり絵や腹話術などをやっていて、その影響で私も少し声を遅らせて出せるという特技を身につけました(笑)。

─────学校は地元の市立校に通われていたとのことですが、高校は名門の岐阜商業に進学されていますね。

岐阜商業に入ったのは本当にたまたまでした。中学では陸上をやっていて、割と速いほうだったので、地元でオリンピック選手や著名人をたくさん輩出している岐阜商業を選びました。

部活動がとても盛んな学校で、原則として全員が部活に入る決まりがありました。いろんな部活がありますが、陸上部や水泳部、簿記部や茶華道部など全国優勝を果たした部活が多くて、なんと言うか、みんなすごくて…。

どの部活にするか決めかねている時にたまたま勧誘されたのが放送部でした。「高校野球の県予選でウグイス嬢ができるよ」という誘い文句に魅力を感じて、ミーハーな理由なんですけど、放送部に入ることにしました。 

─────放送やアナウンスとの出会いは偶然だったのですね。実際に放送部の活動を始めてみて、いかがでしたか?

やってみると、単純に「面白い」と感じました。同級生の友達が「ハキハキしていてとても聞きやすい」と褒めてくれたことがきっかけで、顧問の先生が放送コンテストに出場させてくれたんです。高校1年生でいきなり入賞することができて、結果を出すことができたのでどんどんのめり込んでいきました

コンテストでは、自分でニュース原稿を書き、その内容を伝えるというプロセスがあるのですが、岐阜商業にはすごいキャリアを持った先生がたくさんいるので取材先には困りませんでした。当時、水泳でオリンピックに出場した糸井統さんが体育の先生をしていたので、「どうしたらオリンピック選手になれますか?」とインタビューしました。

糸井先生からは「普段の練習を本番だと考えること。その状態を継続すること。そして、オリンピックの本番では、普段と同じようにすることを心がけていた」と教えていただき、原稿を書き上げたことを覚えています。

─────1年生から入賞とは素晴らしいスタートですね。元オリンピック選手など、なかなか刺激的な環境だったのではないでしょうか?

刺激はもちろんありましたが、それよりも驚きや挫折に近かったかもしれません。上級生には体操競技でオリンピックに出場した先輩がいましたし、クラスの男子の半分くらいは夏の甲子園出場を目指していました。同じ高校生なのに、「国を代表して世界で戦う」とか「日本一を目指す」とか、高いマインドの持ち主ばかりでした。

そんな環境で自分を振り返った時に、びっくりするくらい自分には何もないことに気づいたんです。「みんなはすごいところを目指しているのに、私はピアノを弾いてきただけの普通の高校生だ」と思いました。シドニーオリンピックに日本代表として出場された先輩の家に遊びに行ったことがあるのですが、メダルやトロフィーがずらーっと並んでいるのを見たときに、「同世代なのにこんなにも違う人生を送ってきたのか」と圧倒されました。

みんなとの違いを実感し、私なりに悩んだりもしましたが、「上を目指して自分に厳しくがんばり続けている人たちにインタビューして、それをわかりやすく誰かに伝えることはできるかもしれない」と思ったんです。これが「伝える側にまわろう」と決めた原点でした。

─────その時点で「将来はアナウンサーになる」という目標ができたわけですか?

目標というか、「なれたらいいな」という感じでした。というのも、放送部の県大会でずっと勝てない人がいたんです。彼女は別の高校だったのですが、アナウンス技術が素晴らしい上に同性の私から見ても圧倒的なオーラがあり、憧れの存在でした。

大会ではいつも彼女が優勝していて私は2位だったのですが、高校生のうちにどうしても勝ちたかった。そこで私は「彼女に勝つことができれば、岐阜の田舎からでも遠い存在であるアナウンサーになれるはず」とマイルールを決め、ひたすら練習を重ねました。そして、3年生の最後の大会で初めて1位になることができたんです。

─────まさに有言実行ですね。その後についても聞かせてください。

優勝できたので、マイルール通りにアナウンサーを目指そうと心に決めたのですが、私は自分を表舞台に出すことに自信が持てなくて、その夢を口にするのが恥ずかしく誰にも言えませんでした。

高校の進路面談の時に、勇気を出して担任の先生にだけ打ち明けたところ、すごく親身になって相談に乗ってくださったんです。私は自宅近くの大学に進学しようと思っていたのですが、「夢を実現したいのなら、せめて名古屋に行きなさい。名古屋で一番アナウンサーを輩出している大学の推薦枠があるから、そこへ行きなさい」と母親にも熱を込めて力説してくださいました。

当時の私には「アナウンサーになりたい」という気持ちしかなく、将来を見通す判断力がありませんでした。でも先生は、その夢だけを軸にして、どうすれば実現できるかを真剣に考えてくださいました。いまでも本当に感謝しかありません。

─────大学では、夢に向かってどのような準備を進めていったのでしょうか?

アルバイトでは言葉を使うキャラクターショーのお姉さんをやったり、先輩が立ち上げた学生のインターネット放送局でリポーターをしたり、アナウンサー就職に照準を合わせた生活をしていました

大学2年生のときには気象情報会社が制作している動画番組のお天気キャスターにも挑戦しました。オーディション会場に行くとタレントさんのような綺麗な方たちばかりで、「普通にしゃべるだけでは審査員の記憶に残らない」と思いました。そこで、腹話術をしたり、一人で「現場の樋田さーん」「はーい!」と掛け合いをしたりして、どうにか爪痕を残そうとしました。客観的に見たらちょっと変な人だったと思いますが、なんとか審査を通過し、お天気キャスターになることができたんです。

それからは、名古屋の大学に通いながら、週に3日は千葉に通っていました。千葉にマンションを借りて行ったり来たりする二拠点生活でしたが、大変さはまったく感じず、「夢のアナウンサーに近づける」といううれしさだけで突き進んでいました。

─────いよいよ就職活動ですが、マスコミの中でもアナウンサー試験は少し特殊だと思います。当時の就職活動についても教えていただけますか?

アナウンサー試験は、ニュース原稿の読み上げやスタジオでのカメラテストがあります。そのため、大学に通いながら、アナウンススクールにも通っていました。

当時のスクールの指導方針は「全国の局を大きい順に全部受ける」というものだったので、全国の放送局の締切情報を必死にチェックしていたのを覚えています。

私がアナウンサー試験に挑戦していた当時は、大学2年生の夏からキー局(※)の選考が始まり、年内に内定が出揃います。

(※)キー局:テレビ放送においては、東京都内に所在する5つの主要放送局を指す。ラジオ放送においても略同様で、こちらも東京都内の5つの放送局を指す。対して大阪府大阪市や愛知県名古屋市に本社を置く民放局を「準キー局」、それ以外のエリアの民放局を「ローカル局」「地方局」などと呼ぶ。

キー局の選考の後に、関西圏や中京圏の準キー局、そして地方局の試験が始まるのですが、私はことごとくお見送りでした。履歴書を出しても出しても通過せず、一般企業の就職活動をしているまわりの友人がどんどん内定を獲得していき、大学でも就活ムードが下火になっていく中でも、私はひたすら全国の地方局を行脚して、試験を受けていました

アナウンススクールの仲間たちが次々と内定を手にしていくので本当に焦りましたが、特に仲の良かった友人が「次はあなたの番だよ」と励ましてくれて、夜行バスの乗り場まで見送りに来てくれたことはすごく覚えています。

東京の新宿から夜行バスに乗って青森に向かい、青森放送のアナウンサー試験を受け、ようやく内定をいただけたのが大学4年生の8月25日でした。大学2年生のときから始まった長い戦いだったので、日付はいまでもハッキリ覚えています。何度も「もうダメだ」と思いましたが、諦めずに夢を実現することができました。

─────アナウンサー試験の合格、本当におめでとうございます!プロのアナウンサーとしての生活はいかがでしたか?

2008年4月に青森放送に入社し、「初鳴き(※)」はラジオのニュースでした。心臓が飛び出るほど緊張したのを覚えています。

(※)初鳴き:新人アナウンサーが初めてアナウンスすること。

住む場所も変わり、新しい環境での生活にワクワクしていたこともありますし、夕方の看板ニュース番組でお天気キャスターの役割もいただくことができて、順調でしたし楽しかったです。

でも、そんな楽しい気分はすぐに打ち砕かれました。先輩アナウンサーの方々は信じられないほどアナウンス技術が高くて、圧倒的なスキルの差を感じたからです。特に、当時番組をご一緒させていただいた秋山博子先輩は系列局の優秀なアナウンサーに与えられる賞を獲得するような偉大な方でした。

秋山先輩のニュース読みやドキュメンタリーのナレーションは、声の出し方から間の取り方まで、聴いているだけで鳥肌が立つような圧倒的なものでした。それに対して、自分のナレーションを録音で聴いてみると凄まじいギャップを感じたんです。「プロのアナウンサーとして仕事をしているのに、やっていることは学生の発表会レベルだ」と思い、あまりの実力の差に心が折れそうになりました。

学生時代にキャラクターショーやお天気キャスターで経験を積んだことが、変な自信になっていたのだと思います。でも、私の場合はそんな自信はプロの現場では何の役にも立たないと痛感しました。そこから、放送が終わってからブースにこもり、その日の録音を確認して練習する日々が始まりました。

─────やっとの思いでアナウンサーのキャリアを手に入れたと思ったら、プロの世界は厳しいですね…。

そうですね。何よりもつらかったのは、すでに素晴らしい技術を持っている先輩の方々が、放送の前後に時間を見つけてずっと自主練習をしていたことです。「これだけ上手なベテランアナウンサーがこれほど練習しているんだから、私はその何倍も練習しないと絶対に追いつけない」と思い、狂ったように練習を続けましたが一向に差は縮まりませんでした。

また、私は喘息の持病があるのですが、その影響で声量が少し弱く、声が小さいという弱点があります。「こうすればもっと良いアナウンスになる」と頭では理解していても、実際には理想の声が出せない悔しさもあり、それでも「どうすれば上達するのか」を考えながら、あがいていたように思います。

とにかく、あの声と完璧な間は、毎日の地道な鍛錬によってのみつくられる「本物のプロの技術」なのだということは、現場で骨の髄まで叩き込まれました。

─────とてもストイックに仕事と向き合っておられたのですね。少し目線を変えて、青森放送で得られたことや現在につながっている経験についてもお聞きしたいです。

幅広い業務に携わる機会をいただけたことは、非常に良い経験だったと思っています。地方局は少ない人数で業務を進めるため、アナウンスだけが仕事ではありません。テレビもラジオも担当しますし、企画をすることもあれば、音響をすることもあります。

たとえばラジオの録音番組では、自分の企画書が通ったら、番組のタイトルも自分で決めますし構成台本もつくります。本番中はブースに入って自分で話しますし、番組に届いたお便りを読み上げつつ、次にかけるリクエスト曲をセットして、タイミングを見て音量の上げ下げまでやっていました。収録が終われば編集作業があるため、遅くまで局に残って音声をつなぎ合わせるというのが当たり前でした。

いま思えばハードな働き方をしていたかもしれませんが、いろいろと任せていただけることがうれしかったですし、自分のアイデアが番組として世の中に発信されるのですごくやりがいがありました。さまざまな業務に携わったことで、たくさんの経験が積めたことは大きな収穫だったと思います。

─────その後、フリーに転向されていますね。

2011年の3月いっぱいで青森放送を退社し、フリーアナウンサーになりました。「もっと広い世界を見てみたい」という気持ちがあり、違う環境に挑戦しようと考えたからです。

フリーアナウンサーとして名古屋のテレビ局で仕事をするようになってからは、全国ネットのニュース番組内で流れるローカルニュースやイベントのMCなどを担当していました。そのテレビ局では完全な分業制になっていて、アナウンサーが自分で企画をつくったり編集をすることはありませんでした。

その代わり、本番のアナウンスに求められるパフォーマンスの期待値が非常に高かったです。私は深夜のニュース番組でローカル枠を担当していたのですが、本番の時間は短いものの待機時間が長く、張り詰めた状態で本番を待つ緊張感のある現場でした。

─────名古屋のテレビ局にはどのくらい在籍されていたのでしょうか?

3年くらいだったと思います。業務が完璧なルーティンとしてシステム化されているので、シフトの中で同じ毎日が繰り返されていく感じでした。仕組みが整っていることは良いことだと思う一方で、個人的には「広い世界を見てみたい」「いろんなことに挑戦したい」という気持ちがあったので、環境を変えるために東京に出ることにしました。

─────いよいよ東京への挑戦ということですね。

東京に出てきて、大手タレント事務所に所属したところまでは良かったのですが、現実は思い描いていたものと違いました。事務所に所属しているだけで、たいして仕事がない状態が続いたんです。

唯一獲得できたのは千葉のテレビ局の1本だけでした。毎週土曜日に放送される番組でしたが、収録は月に1回です。朝からスタジオに集まり、1日で4本録りしていました。1ヶ月分を一気に収録するので、残りの29日はスケジュールが真っ白で、ずっとお休みのような状態でした。

フリーアナウンサーは基本的に事務所が案件を獲得してくるのを待つしかありません。完全に「待ち」の環境に置かれた時に、いろんなことに挑戦したくて東京に出てきた私のエネルギーは行き場を失ってしまいました。「仕事をしたいのに、仕事がない。どうすればいいだろう」と悶々と考えるようになったんです。

そして「待っているだけじゃダメだ」と考えるようになり、ついに事務所を辞めて自分で会社を立ち上げる決心をしました。大きな決断だったので、日付もハッキリ覚えています。2015年の3月19日、私が29歳の時でした。

「事業計画書ナシ」「見込み顧客ゼロ」から始まった元アナウンサーの挑戦

─────29歳で起業することを決めたということですが、会社設立の際のエピソードを教えてください。

完全に「想いだけ」だったので、恥ずかしながら事業プランはありませんでした。会社経営についてはもちろん、法人登記のやり方も知りませんでした。インターネットで法人登記の手順を調べて会計事務所をまわったのですが、最初の数件は「やめたほうがいい」とまったく相手にしてもらえませんでした

いま思い返すと当たり前で、「資本金や資本準備金は?」と聞かれてもそんなに貯金はなかったですし、「事業計画書を見せてください」と言われても出すものがありませんでした。「顧客獲得の見込みは?」という質問にも答えられない状態でした。

4件目に伺った税理士の先生が「とりあえず進めてみましょう」と言ってくださり、必要な手順をひとつずつ教えていただきながら手続きをしていきました。当時はビジネスについて何もわかっていなかったのですが、まずは勢いだけでなんとか会社をつくることができました。

─────中身がない状態からのスタートだったのですね。最初のサービスをどのようにつくっていったのでしょうか?

アナウンサーしかやったことがなかった私は、まずは経営者に会いに行こうと考えました。お昼のテレビ番組で、ゲストが次のゲストを紹介してつなげていくコーナーがあり、それを参考にして社長版をやってみようと思いついたんです。

当時は東京に出てきたばかりだったので、経営者の知人はおらず、フリーアナウンサーの友人から紹介してもらう形でスタートしました。社長業を知るために「どういうことをされているのですか?」とお話を聞きに行き、次の方を紹介していただく。それを繰り返していき、合計で100人の経営者にお話を聞くことができたのですが、質問の仕方や相手の方が話しやすく感じる相槌など、アナウンサー時代のインタビュー経験が活きました。

─────100人の経営者インタビューから得られたのは、どのような気づきだったのでしょうか?

共通していたのは、社員の方へのお困りごとでした。簡単に言うと、社員教育や育成に課題を感じていたことがわかったんです。では、私にできることは何だろうと考えたときに、コミュニケーションの仕方や話し方の部分でご支援ができるかもしれないと思いました。これが最初の事業である「研修サービス」です。

そこから「社内のコミュニケーション課題を解決しませんか?」と提案してまわり、話し方の研修サービスをつくっていきました。「アナウンサーのスキルをビジネスの現場に」というチラシをつくり、お金がなかったのでホームページも自作して、最初は自分が講師として研修の現場に立っていました。

同時に、フリーアナウンサーの友人が「事務所に登録しているけれど仕事がない」と悩んでいたため、希望者を集めて講師勉強会を開きました。彼女たちと契約し、講師として育成して研修現場を任せ、私が営業で獲得した案件を渡すというやり方を始めました。

─────ニーズを把握し、ニーズに合うサービスを提供する「マーケットイン」のやり方ですね。講師がフリーアナウンサーというところがユニークですね。

そうですね。自分にできることは何だろう?を考えてカタチにしていったら、結果的に独自性のあるサービスになったという感覚です。

次に立ち上げたのは「司会サービス」なのですが、これはフリーアナウンサーに働きやすい環境をつくりたいという想いからつくったものです。当時はアナウンサーのプロダクションに所属していると他社経由で司会をしてはいけないという業界のルールがありました。そのため、私の会社は「アナウンサーのプロダクションではない」という位置付けにし、競合せずに棲み分けられるようにしました。

研修サービスで取引先が増える中で、企業の採用イベントの総合司会などを提案していったところ、司会のお仕事も少しずつ増やすことができました。

─────研修や司会に加え、『女子アナ広報室』のサービスも順調だと伺いました。このサービスが誕生した背景についても教えてください。

当時はアナウンサーが30人ほど所属していたのですが、常にスケジュールが埋まっている人もいれば、新規の現場に行っても次が続かない人もいました。「どうしてだろう」と一人ひとりと話をしてみたところ、同じアナウンサーというキャリアでも、バックグラウンドが違うことに気づいたんです。

たとえば民放出身者は月曜日から金曜日までの帯番組を担当しているため、経験が豊富で「人前で言葉を使って何かを伝えること」に非常に慣れていました。一方で、NHKのキャスターやリポーター出身者は、制作側が主導する番組に週に数回出演するケースが多く、演者としての経験値が少ない人が多かったんです。ただ、NHK出身者は「企画をする」という強みを持っていました。

そこで、企画力を活かしたサービスをつくろうと考え、2019年の7月に誕生したのが『女子アナ広報室』です。企業の広報代行サービスで、「どのようなプレスリリースをつくれば注目してもらえるか」や「どのメディアにアプローチすれば取り上げてもらえるか」などを考え、メディアを繋ぐ広報業務までをサポートしています。

─────2015年の起業当時は事業計画書もなかったのに、2019年までに3つのサービスを立ち上げたのはすごいですね。

いずれも「目の前にあるお困りごとや課題を解決するにはどうすればいいだろう?」という観点で立ち上げたものなので、私自身に事業づくりの能力があったわけではないと思っています。

今できることを一生懸命やる。それぞれの強みを活かすにはどうすればいいかを一生懸命考える。その時々の状況に応じて、できることに全力投球してきただけという気がします。

─────順調に事業を拡大してきたところに、コロナ禍が来ました。当時の状況はいかがでしたか?

2020年の2月ごろから「キャンセルできないか?」という連絡が増えてきました。3月にはキャンセルが多発し、4月には緊急事態宣言が出て、人が集まる研修と司会のサービスは完全にストップしました。『女子アナ広報室』は立ち上げから半年で「これからがんばるぞ!」という時期だったのですが、どの会社も経費削減で外部サービスを見直していたので、営業は非常に苦戦しました。

当時は自社採用も強化していたのですが、内定を出していたメンバーには「内定は予定どおりです。大丈夫です」と伝えました。先行きが見えない状況だったからこそ、まずは安心してもらうことが大切だと考えていたからです。

とはいえ、「大丈夫」と言い切れる確証があったわけではありません。会社がどうなるかわからない状態でしたが、社員の雇用を守り、内定者との約束を果たすという覚悟だけは決めていました。

─────研修と司会のサービスが止まるというのは業績面で非常に痛手だったと思います。そんな厳しい局面で、経営者としてどのように会社の舵取りをしたのでしょうか?

営業に苦戦したことは事実ですが、私は「どの会社も同じ状況で、自分たちだけが厳しいわけじゃない」と考えました。その上で、自分の中でストーリーをつくったんです。

コロナが何かよくわからず、世の中に不安が溢れていた当時、私は「この大変な時期でも業績を落とさずにがんばり、コロナが落ち着いた時に『いろいろあったけど気がついたらこんなところまで来ることができたね』と笑顔で言えるようにしよう」と思い描きました。あとは、思い描いたストーリー通りになるように、行動数を増やしてひたすら営業に打ち込みました。

─────悲観していてもしょうがないから、そのときにできることを精一杯やる、ということですね。

そうですね。当時、『女子アナ広報室』は立ち上げ期だったので、どのようなお客様に刺さるサービスなのか明確には把握できていませんでした。そのため、リサーチも兼ねて「モニター価格」として通常よりも安価に提案していきました。

そして、導入いただいた顧客のメディア露出実績をお客様の声として資料にまとめ、その資料を使ってまた営業するという循環をつくっていきました。研修と司会のサービスはなかなか再開のメドが立たなかったので、この時期は『女子アナ広報室』だけに絞り、提案していったんです。

実績ゼロでスタートした『女子アナ広報室』でしたが、私たちには企画が得意なメンバーがいます。元アナウンサーなので、放送局を中心にさまざまなメディアとパイプを持ったメンバーもいます。一方で、中小企業やスタートアップ企業を中心に、自社の魅力を第三者にわかりやすく伝えるのが苦手というお客様は多いです。私たちの強みとお客様のニーズがうまく噛み合い、多くの契約をいただくことができました。

このやり方を地道に続けた結果、『女子アナ広報室』は累計で2,400件のメディア露出実績をつくるサービスに成長しました。

また、先ほど業績の話が出ましたが、実はトークナビは設立してから一度も業績が落ちたことはないんです。コロナ禍で営業に苦戦したことは事実ですが、それでも常に右肩上がりの成長を続けることができています。

─────それはすごいですね!競合他社とのバッティングやシェアの奪い合いもあるかと思いますが、どのような戦略を取っているのでしょうか?

大前提として、他社とバッティングしないサービスづくりをしています。競合がいたら負けてしまうと思うので、ライバルがいない市場でサービスを尖らせる戦略です。

たとえば、元アナウンサーやキャスター、リポーターが多く所属するプロダクションがありますが、ビジネスモデルとしてはタレントや芸能事務所のカテゴリーだと思います。そこで、従来のタレントマネジメントのような案件を待つスタイルだけでなく、年齢やライフステージの変化に関わらずにスキルを発揮し続けられる仕組みが必要だと考えました。

─────具体的にはどういうことでしょうか?

司会という仕事を例にすると、拘束時間がとても長いという側面があります。現地に移動し、リハーサルも含めると6時間以上ということもよくあります。そのため、子どもができると司会の仕事をすることが難しく、フリーアナウンサーが仕事を続けることが困難な状況がありました。

そこで、「家にいながらアナウンサーの経験や知識を活かして仕事ができる仕組み」として広報の代行サービスをつくりました。これによって、まずは既存の芸能事務所の競合ではなくなりました。

現地へ行くことが難しい子育て期間は在宅ワークの広報代行で対応し、仕事に使う時間が少し増えてきたときには、移動も含めて4時間ほどで完結する研修サービスの講師として教える側に回る。このように、ライフステージを進めていくにあたり、自分の年齢や環境の変化に合わせてちゃんとシフトチェンジしていけるように設計しています。

─────それは独自性になりそうですね。ちなみに、広報代行サービスでは2,400件のメディア露出実績があるとのことですが、「広報がうまくいく会社」と「そうではない会社」の違いはどこにあると感じていますか?

最も大きな違いは、人を打ち出せるかどうかだと思います。社長であったり、社員の方を主語にして広報できるかで、結果が大きく違ってくるからです。

お客様からは「製品をとにかくアピールしたい」「製品の認知を上げたいから製品だけを出して欲しい」と言われることがあります。その際、「製品を開発した方を切り口にして広報したいのですがいかがでしょうか?」と確認しています。「大丈夫です」と言っていただければ、広報活動がうまくいくことが多いです。

「人ではなく製品を打ち出したい」と言われると、それは広報ではなく広告の領域になります。広報の文脈でメディアに露出させることが難しくなるため、私たちは営業の段階で明確に見極めをしています。

─────なぜ「製品だけ」では広報がうまくいかないのでしょうか?

製品のビジュアルや製品名だけを伝えられても、製品そのものに興味を持つことは少ないと思います。背景にある製品誕生のストーリーを知った時に初めて、製品に興味を持ったり、「購入したい」という気持ちになるのだと思います。裏を返すと、背景がわからない製品は記憶にも残りません。

たとえば、私たちの『女子アナ広報室』を打ち出すとします。その際、「アナウンサーの経験者が企業の広報を代行するサービスです」とアプローチしても響きません。しかし、「アナウンサーの世界には30歳を超えると仕事が激減していくことがあります。その課題を解決するために誕生したのが女子アナ広報室です」と伝えたらどうでしょうか。「詳しく聞きたい」と少しは感情が動くと思います。

広報内容に人を出すことができれば、ストーリーを語ることができます。人はストーリーに興味を持ち、共感するものです。そのため、最も効果的なのは社長自身を打ち出すことです。広報戦略を立てる上で最もやりやすく、効果が出やすい会社の共通点だと思います。

AIの時代に、人間の声で物事を伝える意味や価値はどこにあるのか

─────組織についての質問です。社員の皆様にとって、年齢や環境の変化に合わせてシフトチェンジできる環境は非常にありがたいと思いますが、一方でビジネスとして成果を出し続けることも重要だと思います。「職場環境のやさしさ」と「成果が求められるビジネスの厳しさ」を、どのように両立しているのでしょうか?

正直に言うと、両立させるのは非常に難しいと考えています。トークナビには多くのアナウンサー経験者が集まってくれます。いまでは80人ほどの会社になりました。司会サービスであれば、みんなすぐに活躍できるのですが、広報代行サービスにおいては、お客様の目的を実現することが求められます。そのため、結果がすべての世界であり、継続的な成果を求められたときに、どうしても耐えられないメンバーも出てきます。

私は、そうした厳しい現実をハッキリと伝えることこそ本当のやさしさだと考えていますが、結果として辞めてしまうメンバーもいました。アナウンサーが活躍できる環境をつくりたいという想いはもちろんありますが、ビジネスとしてしっかりと成長させなければ事業を拡大することはできません。

では、どうすればそれらを両立できるのか?ということなのですが、「これをやれば大丈夫」という明確なゴールイメージは残念ながらまだ持てていません。でも、どうにかしてより良い状態に近づけるように、いろいろと試行錯誤をしているところです。

─────試行錯誤の具体例があれば教えてください。

昨年の10月からやっていることは、採用基準の大幅な変更です。「元アナウンサーであること」という採用条件を見直し、「伝えることを仕事にしたい方」に変更しました。プロ意識を持って仕事に向き合い続ける集団をつくろうと考えたからです。

採用基準をガラッと変えた結果、元新聞記者の方や、元ホテルの広報担当の方などが応募をしてくれるようになりました。現時点では採用基準の変更をとてもポジティブに捉えていて、組織としてもうまく回り始めている感覚があります。「プロ意識を持って目的にコミットできる人材かどうか」は、採用時に最も大切にしていきたいと考えています。

─────事業についてもお聞きします。研修・司会・広報代行に続くサービスとして、注力しているものはございますか?

新しく広告の領域を開拓しています。アナウンサーはどうしても「司会の人」というイメージが強いと思うのですが、そのイメージを広げていきたいと考えているからです。

いま世の中には、商品を持って魅力的にプレゼンするPRの仕事が大量にあります。いつもならモデルの方やタレントの方が登場することが多いですが、「プロのアナウンサーが商品をプレゼンする動画はどうでしょう?」と広告代理店さんに営業をかけているところです。

企業の動画案件やコマーシャルのリポーターとして、トークナビのメンバーのアサインが始まっています。イベントの司会だけでなく「動画もつくることができて広告にも使える」というアウトプットにすることで、他のアナウンスプロダクションと大きな差別化になっています。

既存のアナウンスプロダクションは「A社のビールの案件に出ている間は、B社はNG」といったルールが非常に強いのですが、私たちはそういったルールが緩やかな領域を探しています。就職説明会の司会など、BtoBの現場へどんどん仕事の幅を広げていくつもりです。

─────ありがとうございます。ガラリと話題を変え、AIについてお聞きしたいです。技術が進化し、AIが自動でナレーションを読み上げる時代になりました。その中で、人間が、生の声で物事を伝える意味や価値はどこにあるとお考えでしょうか?

単発のナレーションの案件などは、おっしゃる通りAIを使えば済むので、人間の仕事としては減っていくと考えています。ただでさえ、仕事の数に対してフリーアナウンサーの数が多すぎると思っているので、そこにAIが入ってくるわけですから、ただ原稿を読み上げるだけのアナウンサーの需要は少なくなっていくはずです。自宅にマイクを設置して、「宅録可能です」とSNSで発信し、個人で仕事を得ようとがんばっている方もいらっしゃいますが、そうした案件は減る一方なので、相当がんばらないと生き残ることは難しいのではないでしょうか。

私が大切に思っているのは、「自分たちが時代とともに変わるしかない」という心構えを持つことです。過去の私も含めて、多くのフリーアナウンサーは事務所に所属した段階で安心しがちだと思います。昔ながらの「プロダクションに所属して案件を待つ」というスタイルに疑問を持っていません。でも、時代は大きく変わっています。

だからこそ私たちは、ただ原稿を読むだけではない、AIには真似ができない「考える力が求められる業務」や「ストーリーを紡ぎ出す業務」「人の感情に触れる部分」をサービスにしてきました。広報代行などは、そのわかりやすい例だと思います。

─────AIの出す答えと、人間が介在する広報代行サービスとの決定的な違いは何だと思いますか?

AIと人間の決定的な違いは、「心」や「気持ち」の領域だと思います。AIは統計的に適切だと思われる答えをすぐに出してくれますが、人の気持ちを汲み取ることは、まだできません。

私たちの『女子アナ広報室』は、単なる作業としての広報代行ではなく、社長の伴走者になるというスタイルをとっています。社長の想いや意図を深く汲み取り、企画力や取材力を活かして魅力を引き出し、伴走して引っ張っていくスタイルです。社長個人や企業独自の切り口を見つけるという頭脳の部分こそが、人間にしかできない価値の出し方だと思います。

何があったのかという事実を丁寧にまとめたプレスリリースではなく、私たちは社長の人生やお人柄からヒアリングし、より魅力的なストーリーを描いてプロフィールシートを作成します。それを持って、メディアに直接取材交渉に行きます。

さらに、自社で新規開拓を重ねてきたテレビ、新聞、雑誌、各業界紙といったマスメディアとの独自のパイプがありますから、社長の意図を汲んで、適したメディアの方々をお繋ぎすることができます。社長はただ、メディアの前でご自身の想いを語るだけで良いんです。そうしてメディアに露出することで、社長の想いが世の中に伝わり、たとえば採用の文脈であればミスマッチを防ぐことができます。

企業の広報代行をするときは、メンバー個人が担当企業と深く向き合いますが、定例のチームミーティングで各自の状況を共有するようにしています。そうすることで、他のメンバーの取り組みを自分の仕事に活かすことができますし、人間だから出せる価値を磨いていくことができます。このプロセスは、AIには真似できないと思っています。

─────今後、トークナビとして挑戦していきたい事業の展望について教えてください。

社長が前進できるよう支える存在になることです。

最近、会社のミッションを刷新したんです。『伝える力を通して人と企業を結ぶ架け橋となり、挑戦者の新しい機会を切り拓きます』という内容にしました。

私たちが想定している挑戦者とは、主に社長のことです。社長業というのは、挑戦すればするほど多くの壁に直面する仕事です。そして、壁を乗り越えられる人もいれば、諦めてしまう人もいます。困難に直面した瞬間に、私たちが一番の伴走者になり、社長の挑戦をしっかり支えていけるようになりたいという想いがあります。まずは、このミッションを体現できるように、愚直にがんばっていこうと思っています。

具体的な事業アイデアとしては、元アナウンサーであるトークナビメンバーのビジネススキルをさらに高めていくことで、50代など年齢を重ねた段階で「女性の社外取締役」としてお客様のビジネスを支援するサービスを考えています。

アナウンサー経験だけでは社長の近くで働くことは難しいですが、私たちが持っている「声で伝えるための専門技術」をビジネスの現場に当てはめることができれば、社長のスピーチトレーナーや社外取締役として伴走者になれるのではないかと思うんです。

そのためには、ビジネスや事業についての知識を深めることが重要ですし、経営についても勉強する必要があると思います。簡単ではないですが、コツコツと努力を重ねて豊富な知識や専門性を身につけた人こそが、これからの時代を生き残っていけるのではないでしょうか。これからも、トークナビのメンバーと共に、人間だからこそできる価値を磨き続け、社長が前進できるよう支える存在であり続けたいと思っています。

─────最後の質問です。ご自身が思い描いている今後のキャリアについても教えてください。

私には子どもが2人いますが、日々の採用面接の中で「子育てがあるので仕事を辞めざるを得なかった」「働き方を変えないと仕事と育児の両立ができないため転職活動をしている」といった女性の声に、たくさん触れてきました。

自分自身も子育てを経験し、仕事との両立の大変さは身に染みてわかっているつもりです。だからこそ、会社としても女性が働きやすい設計を大切にしています。その上で、「伝える力」という生きていく上でも大切なスキルを、次の世代にしっかり残していきたいと考えています。

以前、社会貢献活動の一環で、小学生を対象にニュースを伝えるための発声教室を開いたことがありました。また、コロナ禍の時期には、オンラインのプログラミング教室とのコラボで、「技術はあるけれど、それを人前でうまくプレゼンできない」という子どもたちのために話し方レッスンを展開したこともあります。

自分の考えを他者にちゃんと伝えられることは、その人の人生にとって大きなプラスになるはずです。アナウンス技術は伝える力を伸ばしてくれますから、個人的にはそのきっかけを多くの人に提供していきたいと考えています。

伝える力はセンスだと思っている方が多いかもしれません。でも、後天的に身につけられるものです。お作法や理論を学び、トレーニングを繰り返すことで、手に入れられる技術であり、華道や茶道のように探求していく「道」のようなものだと思います。

自宅では、0歳の子どもに向かって、発声の練習として「あ・い・う・え・お」と声をかけています。まずは良い発声を耳で学んでもらおうと思っています。小学3年生の上の子は、音読と読解力トレーニングをしています。これは「内容を理解した上で指定した時間内に読むことができるか」に挑戦するものですが、ストップウォッチを片手にゲーム感覚で取り組んでいます。目標タイムをクリアしてよろこんでいる姿を見るのは微笑ましいです。

いまの時代、AIはとても優秀でいろいろな答えをくれますが、私の心の中にある本当の気持ちを誰かに伝えてくれるわけではありません。どれだけ技術が進化しても、結局は自分の声で、自分の気持ちを伝えるしかないと思います。仕事でも、プライベートでも、大切な「伝える力」をもっともっと世の中に広めていきたいと思います。

会社概要

企業名:株式会社トークナビ

事業内容:研修事業・講演会・セミナー企画および運営、司会者キャスティング事業、広報代行事業など

コーポレートサイト:https://talknavi.co.jp/

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インタビューを終えて

山内基

山内基

株式会社ディプコア ThinkD編集長

インタビュー後、私の中に強く印象付けられたのは、樋田代表の圧倒的なパワフルさと柔軟さでした。 お話を聞く限り、樋田代表の経営スタイルには「あらかじめ正解が用意されている」という前提がありませんでした。事業計画なしでの起業、コロナ禍での方向転換、そして元アナウンサー組織からプロのビジネス集団への大胆な採用基準の変更。常に全力で実行に移し、状況を見ながらチューニングを繰り返しています。 では、「理想に固執せず、自分たちを変えていく」という選択ができるのはなぜなのでしょうか。それはきっと、全国行脚のアナウンサー試験で苦労を重ね、プロになった後も圧倒的な先輩との差に打ちのめされ、それでもどうにかして前を向き続けた挫折と復活の経験と無関係ではないはずです。 言葉を選ばずに言えば、樋田代表は局アナ時代、圧倒的な実力を持つ先輩方を前に、ご自身の限界や葛藤を人一倍味わってきたのかもしれません。しかし、だからこそたくましさとしなやかさが身につき、光が当たり切らないフリーアナウンサーの痛みに寄り添う仕組みが生まれたのでしょう。 変化の激しいこの時代に、樋田代表の数々のエピソードは「自らを変え続けろ」という強いメッセージに思えました。

※本記事の内容はすべてインタビュー当時のものであり、現在とは異なる場合があります。予めご了承ください。